
幼少時から青年期に至るまでの間に身内の者や友人、知人、教師などからさまざまな虐待を受けた人は、それがいつ
までも隠され心の痛みとして残ることがある。周囲の人からたたかれたり、突き落とされたり、蹴られたり、髪の毛を引っ張ら
れたり、刃物で脅されたり、性的にいたずらされたりした経験があると、それが癒しがたい心の傷として生涯残り、本人を苦
しめることになる場合が多い。
このような行動面の虐待だけでなく、さまざまな精神的虐待も心の傷として記憶される。たとば、親や配偶者、同胞な
どが過度に厳格で、いつもマイナスの評価しか下さず、審判的態度で接し続けていると、心の傷を一生引きずることにも
なりかねない。
(中略)
このような家庭で育てられると、初めは必死になって自分を抑圧し、周囲に合わせ、良い子であることを演じ続けようとす
ることがある。彼らは、我慢することが美徳だという考えをたたき込まれ、なんでも周囲の要請に素直に応えようとする。仮
に嫌だと思っても、それを口に出す前に抑圧してしまう。「良い子であるべきだ」「模範的な優等生でなければならない」と
いう規範意識にとらわれ、自分の感情を圧殺する。
ところが、実際は、こうした「良い子」である自分を受け入れられないもう一人の「自分」がいることに気づいていない。この
ような「自分」に目を向けることなく、表面的には「良い子」であることを強要され、無理をして「良い子」を演じているうち
に、やがて病んだ自分、ゆがんだ自分ができあがってしまう。
これまで真面目人間だった人が、ある日突然、「学校に行けない」「家事育児ができない」「職場に出られない」「食事
が作れない」「洗濯ができない」「衣服を整頓できない」といった生活障害を引き起こしたり、めまい、吐き気、下痢、動
悸、食欲不振等の心身症状を訴えたりして、外来を訪れることがある。訴えをさらに詳しく聞くと、彼らは「人生に疲れ
た、死にたい」と述べる。
(中略)
ある人たちはこのように述べる。「私は私として生きたい」「いつまでも良い子であり続けることに疲れた」「ありのままの自分
を認めてほしい」「主体的のないあやつり人形としてではく、自然のままで神さまと人の前に出たい」「赦され、愛されている
体験を持ちたい」「神と人に包み込まれているという実感がない」「自分の傷を覆ってくれる人が欲しい」と。また、「お母さ
んの子宮の中に戻りたい」「だっこされたり、おんぶされたり、子守歌を歌ったり、やさしい人に髪をなでてもらったり、手を握っ
てもらったりする姿をイメージすると楽になる」と訴えてくる。こうした子宮内回帰希望、乳幼児時代への憧れ、庇護を希
求する訴えは、退行的依存的な感情ともとれるが、長年の間、抑圧されていた情緒の自己表現として了解することも可
能である。
こうした「内なる子ども」を内包している大人たちに共通する特徴は、「健全で安定した自己愛」が、十分「内在化」さ
れていないことである。痛みゆがんだ自己愛をもつ者は、治療者を過度に理想化したり、治療者を誇大的自己の延長と
みなしたりして依存要求の対象としやすい。他方、もしその依存要求が満たされない場合、共感不全を引き起こし、怒り
を爆発させるために、容易に治療関係はくずれてしまう。
したがって、こうした痛みゆがんだ自己愛性格をもつ人に対しては、一対一の個人的精神療法よりも、同じ悩みをもつ
者同士が集って行う、いわゆるAA(アルコホーリック・アノニムス=アルコールをやめるための自助グループ)が行っている十
二ステップを応用した集団精神療法のほうが効果的であるように思われる。なぜならば、どんなに自分の病的でゆがんだ
自己愛的防衛パターンを否認している者であっても、同じ悩みや苦しみをもった者の話を聞くと、その防衛がくずれ、「無
力な自己」「痛みゆがんだ自己」を認めやすくなるからである。そして、このような気づきが生まれてくると、その痛み、ゆが
み、傷ついている自己を守ってくださるのが神さまであり、その神さまに自分をゆだねようという気持ちが生じるようにもなる。
またそれと同時に集団精神療法に参加している先輩である仲間も、自分の痛みを引き受け、理解してくれるという安
心感をもつに至る。こうした集団としての一体感が、患者の癒しにとって必要である。
さらに、神さまと仲間に支えられているという安心感と信頼感のもとで、患者さんは徐々に、自分の病的でゆがんだ自己
愛の本質を洞察できるようになり、現実を正しく検討する能力が形成されてくることがある。このようにして、彼らが仲間との
ミーティングを繰り返しているうちに、彼らの病的自己愛は、健全な自己愛へと変貌してゆき、彼ら自身、真の回復へ向
けて歩み始めるのである。
『百万人の福音』 平山正美 1997年 7月号
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